ユリ先生のお宅に集まりました^ ^
勝田台駅から徒歩1分
スタジオ兼、ご自宅の
とっても良い気が流れてます♪
ユリ先生としのぶさんと里子さん^ ^
ユリ先生のカレーはいつも
美味しいです♪
ユリ先生のハーモニウムを楽しむ里子さん^ ^
お2人は
キルタンでハートが開いたらしい!
私にはよく分かりません〜
ユリ先生が持っていたギーターカード。
聖典バガヴァッド・ギーターを
分かりやすく学べます^ ^
その日その時、
必要な教えを引いてしまいます。
里子さんは
プラーマヤーマ(呼吸法)=自分を正す
私は『カルター(行い手)』を引きました。
カルター(行い手)=限りない存在
カルターというのは、
カルマに縛られて、本当の自分を見失っている人のことをいいます。
何かをしているわたし、
所有するもの、役割、家庭環境や名前すら
本当のわたしではなくて。
そういったものが「わたし」だと思って生きていることを、
ヨガでは“無知”と言います。
それらが「わたし」と思っていることは、
それに縛られています。
苦しみを抱えて輪廻していきます。
自分が行為者と思っている人は
自分自身の行為の結果に縛られて苦しみます。
自分を「カルター」と思い込み、
勝手に窮屈な枠や限界をつくり、
はめ込んでしまっている状態。
何かが足りない、何かになりたい、
という自分以外の何かを求める行いが
カルマに縛られた「カルター」です。
本当の自分を知ろうとしないのも「カルター」です。
本当のわたし(アートマン・真我)が
“在る”“知る”という
名前や役割や所有しているものはあるのだけど、
自分の義務(ダルマ)を行うのだけど、
それに縛られていない
“自由=モークシャ”が
ヨガのゴールです。
私たちはカルターではない、
本当の自分は無限の存在である。
限界は自分自身が作ってて
やること、起こることにいちいち
とらわれてて
それらは、ただの現象であって
“自己解放”のタイミングとして
起きたチャンスでね。
バガヴァッド・ギーターでは↓↓↓
「人は単に行いをせず、
動かないとういことでは自由になれない。
行いに束縛されない「存在」である
自分自身の本質を理解することが
本当の自由である。
体を動かし、頭を使い、話し、聞き、食べるなど
様々な行いをしながらも
”自分自身が『カルター(行い手)』である
という認識”に縛られない事で、
行いから自由になるのだ。
それはただ単に
『サンニャーシー(出家者)』として、
社会の義務と権利を放棄したとしても、
叶えられない。」
はい、世俗が1番の修行です。
日々の生活で
行いをしながら、関わりながら、
結果や期待を放棄して
無執着に
無私の思いで行為に専念、
いつも心はカラッと
すべてに丁寧に向き合う。
縛られてる時、とらわれている時、
限界決めている時は
自分の自我(エゴ)や
無意識やカルマ(サンスカーラ、インナーチャイルド)
に気づき解放する時ですね。
映画マトリックスは
ヨガの哲学を表現したものとして紹介されますが、
エージェント・スミスさん
agency=主体、行動している状態=カルター
こういったものを捨てた
ネオ(真実)がヨガです。
真我アートマンは純粋意識で
活動することなく
ただ観ている
無限で永遠で不変に
“在る”もの。
「自分が行動していると思っているのは
ただ愚かな者ばかりである」
とクリシュナは語っていると。
自己を見つめ、自己を知り、
自我を手放し、自己を解放。
とらわれの世界から調和と平安へ。
あらためて、
日常生活においても
ヨガの実践を考えさせられましたヽ(´o`;
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