4月に
サッチャ先生にお会いして
その大きさに感動して
次に日本にいらっしゃる時は
出来るだけ
たくさん
そばにいたいと思いました。
サッチャ先生が
夜のテンプルにてギータークラスを
されるので行こうとしてた日‥
お昼に
愛佳さんから連絡来て
夜のダモーダラアラティに参加しますと。
おぉぉー✨
クリシュナのご慈悲で
自然に
サッチャ先生に会えるひと^^
んで…
夜のテンプルにいたら
順子ちゃんもやって来た(笑)
マドゥさんも
テンプルに滞在されてました♪
ダモーダラアラティと
サッチャ先生のギーター講座と
その後にお話会(╹◡╹)
20:50
シャラナ・アラティ(夜の礼拝)
も見れました❤
夜のドレスの神像にお会いする
最もスイートなお勧めダルシャンです。
このあと寺院が閉まります。
なんですがー
プラサードいただきながら
マドゥさんと話し込んでたらーー
23:30だったーー笑
きゃーーー
んでも、
翌朝のサッチャ先生の
シュリーマド・バーガヴァタム
朝の講話も
参加したかったので
まだ真っ暗な早朝にテンプルへ。
マドゥさんたちは
すでにジャパしてました。
5:30
マンガラ・アラティ(朝一番の礼拝)
おごそかでエネルギーに満ちています。
参加することで、
一日が大きく変わること
体感してみて下さい。
5:55
聖木トゥラシーの崇拝
6:05
『シュリーマド・バーガヴァタム』の法話
7:15
ビーズを使ったマントラ瞑想(各自)
8:00
シュリンガル・ダルシャン
美しいドレスに着替えられた神像にお会いし、
プラブパーダを讃えてキールタンします。
一番盛り上がるひとときです。
8:10
グルプージャ
朝の濃密な時間を過ごして
昼に代行のレッスンをして
夜は再び船堀へ。
サッチャ先生のマインドフルネス講座。
この日はまた
昼間に智子さんから連絡が来て
夜のダモーダラアラティに参加しようと。
またまたご慈悲で
サッチャ先生の講座に出ることに(^^
導かれてますねぇ。
バクティというのは
”信じる”
という事から始まります。
(=シュラッダー)
魂が
”自分は神ではない”
というところまでの
目覚めが起きたならば
”私は、
神がいるからこそ、
自分がここにいるんだ”
という
その自覚ができたならば
そこまで達したとしても
物質的に
非常に汚れているかもしれない。
バクティというものには
物質的な原因はないんですね。
魂の本質です。
(Nature of soul)
魂からそういうものが出てくる。
(クリシュナプレーマ)
チャイタンニャ神は
サナータナゴースワミに
このことを教えました。
クリシュナプレーマ
(クリシュナへの愛)
というのは
もうすでに
ジーヴァ(生命体)の中に
こころの中にあるんだと。
だから
それを手に入れるために
何かをしなくてはいけない
というわけではない。
しかし
条件づけられた魂にとっては
その愛が
”眠っている状態”にあります。
だが、
主の栄光について
”聴く”こと(=シュラヴァナ)によって
生命体を覆っている
物質的な汚れというものが
取り去られて
すでにそこにある愛
というものが目覚めていく。
それは”信じる”
ということから始まるプロセスです。
ジーヴァ(生命体)の魂が
バクティと接触するときに
例えそれが
意識的にじゃなかったとしても
物質世界にいる
Devotee(献身者)をとおして
魂に接触してくる
ジーヴァ(生命体)は
バクティシャクティという
チカラに触れることができる。
それは
主の内的エネルギーです。
ジーヴァ(生命体)が
そのエネルギーに触れたときに
”信じるこころ”が芽生えます。
(アギャータスクリッティ)
無意識にどうしてか分からないけど
バクティとのコンタクトが始まる。
バクティというのは
物質界の何ものからも生じるものではありません。
ジーヴァ(生命体)の
こころの中にすでにあるものですね。
適切なコンビネーションによって生じる。
土の中に埋められた種のようなもの
何年も何年も埋まっているかもしれない
でも
そこに水がかけられれば
芽が出てきます。
太陽を浴びて大きくなっていくが、
まず最初に
水がかけられなければ芽は出ません。
そして
物質的な汚れがだんだん取り除かれて
バクティが
Devoteeとの交際によってサポートされ
そして
そこに不動の状態が生まれます。
そしてその長い間
不動の状態が続いた後に
味わいが出てきます。
揺るがない味わい。
その時点ではじめて
Devoteeは完全に解放されます。
そして物質的な欲望がなくなります。
そこから
主への個人的な執着が出てきます。
それが愛に変わり
プレーマとなる。
シュリーマド・バーガヴァタム
にも書かれているように
様々な種類のDevoteeがいて
様々な段階にあって
色々なバクティを持っていることが分かる。
みんなそれぞれ主への愛はあるが
同時に自分たちは
物質的な執着もまだ持っていることも認めている。
クリシュナは
ヴァーガヴァタム11巻でウダバに言っている。
バクティを
自分の持っている資格に応じてやったならば
自分の置かれている立場に正直になったならば
それはその人の飾りとなり
非常に魅力的なものになる。
欠陥ではない。
でも、自分の置かれている状況よりも
もっと発展しているというフリをしたならば
クリシュナは好く見えない、欠陥だと言う。
最後の説は
ヴァイクンタの純粋な献身者によって語られている。
ルーパーゴースワミの慈悲によって
これらはすべての主の純粋な献身者であると。
純粋なバクティは ”動機” がない。
個人的な動機を持っていない
完全に満足している人たち。
何の見返りも求めていない人。
完全に満足して感謝している人。
主がどんなに慈悲深いかを語れる人。
Hare Krishna ✨
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